2009年10月27日火曜日

「歴史」と「歴史学」の違い

<東アジアサミット>日豪が「共同体」構想を提案、米国参加の可能性も―タイ
http://www.excite.co.jp/News/china/20091026/Recordchina_20091026021.html
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久々の投稿です。

東アジアサミットが行われましたね。
もっとも注目すべき議題はやはり「東アジア共同体」ですが。
各国が本気でこれを実現させようとしているかと問うと疑問を感じざるを得ません。

所詮各々の国に帰還してしまえば↓こういった野蛮な式典が行われているからです。

■安重根:伊藤博文暗殺から100年、韓国で記念式典
http://article.wn.com/view/WNAT97982fa182f8a14b58e7d2ddb0e80cee/

いい加減韓国の過剰なまでの反日にはうんざりします。
彼らにとっては極悪人が死んだ記念すべき日なのでしょうがやりすぎでは?
どこにヒトラーやフセインの式典をやってる国がありますか。
自国の品性を疑われるようなことは普通やりたいとは思わないんですけどね。

良い意味でも悪い意味でも平和ボケしている日本と
常に周辺国の脅威にさらされている大陸国とでは
根本的な思想が違うのです。

日本が思い描くのは苦楽を共にする「共同体」。
しかし中国・韓国が目指すのはまー差し詰め「協同隊」ってとこでしょうか。

中国も韓国も別に「苦」まで分かち合おうなどとは考えていない。

まず歴史的な認識の合致なくして、
各国が相見えることは未来永劫ないでしょう。

歴史というのは大概戦争の勝者が作ったものである。
そして歴史の成否を問わず、歴史的証人がいなくなってしまえば
歴史は「物語」になり、どんどんリアリティーを失ってゆく。
リアリティーを無くした歴史は一人歩きし、「捏造」「隠蔽」「着色」され
さらに信憑性のないものになってゆく。

たとえ証人がいたとて、その言葉に嘘偽りがないかと証明することも難しい、
極めて不安定で曖昧なものである。

そうなると重要になってくるのは「証拠」「痕跡」「文献」であったりするが、
こちらも100%なのかというとそんなことはないのである。

単に、古いから、同年期だからという理由で
それに信憑性を見出してしまうことは危険極まりない。
何故ならそこにはそれを残した者たちの「意図」「主観」が入っているからだ。

悲しいかな、僕らには歴史などあるようでないのと同じである。
真実の歴史は「悪意ある先人たち」の「主観」や「策略」という
茨(いばら)入り乱れた茂みの奥深くに隠れてしまっている。

触れようとすれば棘が刺さり怪我をする。
過去、幾多にわたり真実に触れようと試みた者たちは
それに触れた瞬間、または触れる前に息絶えるのである。

もはや現代は真実を追究する「歴史学」はタブーとされ、
国民はフィクションじみた歴史という「物語」を鵜呑みにさせられる時代なのだ。

アジアの歴史も例外ではない。

これから数回にわたり第二次世界大戦前後のアジア間、
そしてアジアー欧米間の歴史についてお送りしていきたいと思います。

まずは伊藤博文が記事になっているということで、
戦前後の日韓の歴史についてメスを入れたいと思います・・・。

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つづき
日韓併合の意味

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