2009年5月2日土曜日

アメリカと日本の違い

以前”自分の長所、短所は?”という質問に対し両方とも、”深く考えるところ”と答えた。

それに対してアメリカで共に思春期を過ごした友人がこんなコメントを書いてくれた。

>あはは。「深く考えること」
>今の日本にそんな時間はあるのか・・・、
>人はみんな、深く考えることをあきらめてる気がするんだぁ。
>でも、僕は凄くわかるナ。やっぱり、今の日本に居ても深く考えるから。

たしかに日本アメリカとでは流れている時間が違うように感じる。
日本はみんな忙しない。何かに追われるように仕事をし、 勉強をし、
遊ぶことでさえも形にはまったやりかたでしかできていないと僕は思う。
たしかに何かを深く考える、という時間はないのかもしれない。

アメリカでは考える時間が無限大に感じる。
はっきり言ってアメリカは自由だ、いや暇なんだ、と思う。
日本のように24時間遊び場が空いていることはないし、
勉強であってもなんであっても本人がやりたければやるし、 やらなくたっていい。
まぁ、最近はのんびり過ぎる体制を 変えようとアメリカ人達も忙しくなってきている。
でもやっぱり自由だし暇だ。良い意味で。

時間があれば心にもゆとりが持てる。
こんな腐った国でさえその”時間”がある。

自分の事をもっと知れる。知ろうとする。
人のことをもっと知れる。知ろうとする。
大いに悩むことができる。
立ち止まることさえもたまにはいいと思える。
疑問をとことん追及して消化できる。
なんだって可能だ。

一度きりの人生なぁなぁで生きたくない。
楽しかったり悲しかったりを100%で感じたい。
感受性豊かな人間でありたい。

日本人は学問や技術において長けている。と思う。
これは戦後の努力の賜物だろう。

でも今はどうだろう?

みな同じような教育を受け、
同じようなレールの上を歩き、同じような能力を身につけている。
なんでも平均以上にこなす万能・日本人。
”万能”と言えば聞こえはいいが、言い方を変えてしまえば
日本人はMAX値の低いオールラウンダー。結局どうがんばっても
どの分野でも他国に劣る。

日本人が他国から社会的に どう認識されているか知っているだろうか?
大半の国々の人たちは“生きるために働いている”。
日本人“働くために生きている”。

働くことにしか生きがいを感じなくなっている日本の多くの人は
どうがんばっても“生きるために必死に働いている人達”や
“生きること本来の大切さを見出している人達”には勝てないだろう。
今は世界指折りの先進国と称されていて曖昧になっている
部分が多いと思う。今後、他の国々が今のモチベーションのまま
日本のような経済力を持ち始めたなら日本は今の地位も権力失うだろう。
(今であっても権力はないか、、、)

日本“自殺率“だけでなく“挫折率”でも
世界上位に食い込むのを知っているだろうか?
なんでも“それなりに”こなせてしまうがゆえの落とし穴。
日本の教育方針に沿っていけばおのずと身に着く
知識や技術を自分にしかないものと過信してしまい、
最終的にその分野の天才・秀才を目の当たりにしたとき、
自分の皮相浅薄さに落胆しあきらめてしまう、
ということである。なぜあきらめてしまうか?
それは日本人の一般教養レベルや基礎知能指数がなまじ高い、
ということがあだとなり、自分と相手の実力差を明確に
割り出せてしまうということにある。

逆に大半のアメリカ人はあきらめない。それはなぜか。
教育方針、一般教養レベル、基礎知能指数が違うから?
たしかにこれらすべてが日本と違ってバラバラではあるが、
それだけではない。

ではなにか。

それは小さいころや思春期にかけて“深く”自分と対話する
機会が多いからである。
時間に追われることも 他人の目を
気にすることもなく納得いくまで 自分と深く接することができる。

ここが一番の違いだと思う。とことん考え抜き、
導き出した目標はもはや信念である。


日本人アメリカ人関係なく、何かを目指す過程では
必ずその分野の先駆者がいる。天才がいる。そして壁にぶつかる。
それを目の当たりにするたびに挫折するような
やわな契約を己と交わしてはいない。
頭の良し悪しや貧富の差も関係ない。
アメリカという国では誰もが深く考える権利があり、
環境が整っている。みな当たり前のように自分と向き合っている。

よくアメリカ人”楽観的”の代名詞のようにいわれがちだ。
たしかに楽観的な人が多く、それがゆえに成功している
例も多い。しかしアメリカ人の中にも悲観的な考えの人も 多い。
だからといってそれが悪いかというとそうでもない。
楽観的というのは何が起ころうが気にせずやるということではない。
楽観的な人であっても友人が死んだり愛する人と別れたりすれば、
悲観的な人以上に悲しむし、傷つけられれば烈火のごとく怒る。
逆に悲観的な人であっても楽観的な人以上に前向きに
がんばり底力を見せることもある。結局“楽観・悲観”の根底まで
突き詰めるとどちらも兼ね備えているということである。
両方を持ち合わせてこそ”人間”なんじゃないだろうか。

日本人は基本的に この“ポジティブさ”“ネガティブさ”を履き違えている。
“ポジティブ”“ネガティブ”の形ばかりに囚われ、
自分でも融通の聞かない考えしかできなくなるのだ。
それに輪をかけ日本人は“恥”に対して以上に敏感で
あるがゆえ、どんな状況でもポジティブを装い、
ネガティブを装わざるを得なくなるのだ。

、、、、話を最初に戻すが、
“深く考える”という行為は人間の本来のありかたである、 と言う事を書きたかった。

偉そうに日本人は、アメリカ人は、 などと言ったが、
自分もまたその日本人の中の一人。
しかしこれだけは声を大にして言わせてもらいたいが、
僕は幸い物事を深く考えられる時間がある環境で育つことができ、
それを最大限に行ってきた。今もまだ考えている真っ只中で、
本当の自分とは一体何なのかを探している。
そしてこれを恥ずかしいなどと思ったことは一度もない。

自分に正直に、そして人に誠実に。
これは学校の授業以外の部分を学んで来なかった人には到底わからないことなんだろう。
人として不可欠なこの感情を養う環境が極端に
少ないということが今の日本の機械的な教育・社会方針の中で
もっとも重要視すべき問題なのではないか。

僕はそう思う。

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